Arida Story 04稲むらの火
世界をも照らす稲むらの道しるべ
紀州・広村の英雄の想いはいま
英雄の条件ってなんだと思いますか?
困難に立ち向かう力? 諦めず仲間を救い出す信念? 世界を良くしようとする熱意?
この地域にはそのどれもを持ち、世界に誇る英雄がいるんです。
その名は「濱口梧陵」。故郷の広村(現在の広川町)を救った彼の偉業はかの有名な作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)によって、文学作品にもなったほどです。タイトルは「稲むらの火」、原題では「A Living God(生ける神)」。
実際に起こった大地震が元となったその物語こそ、世界に津波の教訓を伝える英雄物語。その逸話は国語の教科書に載り、さらには日本から世界へと。梧陵は広村ならず、今や世界の英雄となりました。
今回は、稲むらの火の逸話とそこから生まれた教訓、そして他にもある梧陵の偉業や人となりをお伝えします。
広村の地震をもとにした
小泉八雲の傑作「稲むらの火」
地震による津波をいち早く察知した庄屋の五兵衛が、祭りの準備で気がついていない村人たちに危険を知らせようと刈り取った稲むらに点火。高台にある本宅に誘導することで人々を救うことに成功した。かなり簡略してまとめると、これが「稲むらの火」の物語です。
この五兵衛のモデルとなったのが、広村から千葉・銚子に渡り創業した老舗醤油メーカー、ヤマサ醤油の7代目当主、濱口梧陵でした。濱口家の場所や村人の数、当時の年齢など、物語と史実を比べると少し脚色があるものの、ベースとなるのは、安政元年(1854年)の安政大地震の際に稲むらを燃やし村人に安全な場所を伝えた梧陵の話に他なりません。日の暮れゆく中で起こった地震に慌てふためき、逃げる場所をも見失っていた人々。そこに「早く八幡さんへ!」と人々を導きながら、道中を明るく照らすために道端の稲むらに火を放った奇跡的な救出劇。これにより、多くの村人たちが生き延びることができました。
男気あふれるエピソード満載
ハッピーエンドのその後
物語は、村人の救出でめでたく終わりを迎えます。しかし現実にはその続きがあります。村人たちは命こそ助かったものの、家が流され、大半が職もなくすことになりました。被災からの復興。これが大変な課題であったことは言うまでもありません。
村人たちの惨状を知った梧陵は自邸の蔵から200俵の救援米を差し入れ、被災者用の小屋(仮設住宅)と大規模な堤防を築造。大津波に備えるだけでなく、家や職を失った村人の仮住まいや働き口も同時に作りました。しかも、その財源は全て私財というから、梧陵のイケメンっぷりに惚れ惚れしませんか? 後に「顕彰する施設(濱口梧陵記念館)を作り、後世まで語り継ぎたい」という動きが起こったというのも納得。結果、「1円募金をしてでも働きかけよう」と地元広川の人たちが役場にかけあうことで、平成19年(2007年)に「稲むらの火の館」がオープンしました。
梧陵の生家に建てられた「稲むらの火の館」は、さまざまな角度から梧陵を知ることのできる「濱口梧陵記念館」と、津波防災について学べる「津波防災教育センター」の2つからできています。津波防災教育センターでは3D映像やミニチュアでの津波再現、展示やゲームなどでわかりやすく災害について学ぶことができ、濱口梧陵記念館では生い立ちから晩年までのエピソードや人柄を知ることができます。
そこで見えてきたのは、津波から人々を守り、防災に尽力したということだけでなく、梧陵の村や国への熱い想いと懐の深さでした。
実は安政の津波の2年前に、梧陵は村の親しい人たちとともに私塾「広村稽古場」を作り教育にも力を注いでいます。津波後に再建した広村稽古場は、永続を願った「耐久社」と名付けられ、現在の広川町立耐久中学校、和歌山県立耐久高校へとその想いを引き継ぎ、紀州藩立学習館知事抜擢に繋がっています。この間に持ちあがった、和歌山に福沢諭吉を学長とする英語学校を作ろうという計画も、福沢招致は叶わなかったものの、先進的な考えです。
晩年には大久保利通の推薦を受け、駅逓頭(後の郵政大臣)に、その後和歌山県議会の初代議長にも就任。さらに医学へも貢献し、コレラで10万人死亡説もある幕末、防疫と感染症対策に尽力。現在の東京大学医学部の基礎となった「お玉ヶ池種痘所」の再建や図書・機械類購入にも寄附で協力しています。村を、県を、そして国を守りたいという強い想いは、常に梧陵の原動力になっていたのではないでしょうか。
“梧陵推し”のガイドで
日本遺産を訪ねて
平成30年(2018年)、村を津波から救った濱口梧陵の物語と、防災ストーリーは、「『百世の安堵』〜津波と復興の記憶が生きる広川の防災遺産〜」として日本遺産に認定されました。それに伴い「日本遺産ガイドの会」も発足。物語を知り尽くしたガイドさんが、稲むらの火にまつわる場所を一緒に歩きながら解説してくれます。
コースはさまざまで、ベテランガイドともなれば参加者の年代や人数、所要時間に合わせてトークも臨機応変に展開。当時の津波の様子やその教訓をもとに非常電源を備えた街灯、堤防の形状にまつわる話、耐久社のドラマ…ストーリーを大事にした臨場感たっぷりのトークは年齢も性別も関係なくぐっと引き込まれます。
「梧陵さんの遺した遺徳を未来へと繋いでいくのがガイドの役割。津波に襲われるまちではなく、100年後の津波にも備えてきたまちとして、広川と梧陵さんを知ってもらいたい」とガイドさん。現在も地域に根付く防災の意識と梧陵への畏敬の念をひしひしと感じました。
梧陵が築き、今なお町の安寧を守る広村堤防は国の史跡指定を受け、安政大地震の起こった11月5日は、日本で「津波防災の日」となり、国際的にも「世界津波の日」として制定されています。毎年この日に広川町では梧陵の偉業を称える「津浪祭」が行われています。
村人が避難した神社は
学びにも写真映えにも
大津波の際、梧陵の指示で村人が逃げ込んだ場所のひとつが高台にある廣八幡宮。広村堤防とともに、梧陵と稲むらの火の足跡を訪ねるならば外せないスポットです。
人々が身を寄せ合って過ごしたであろう広い境内は、今では季節の花が浮かぶ御手水鉢や風鈴、風車などで彩られ、静かで美しい風情が広がっています。
奥に進むと、梧陵の没後に親交のあった勝海舟がその偉業を伝承するために書き記した「濱口梧陵碑」が建立。また、黒船来航の2年前にあたる嘉永4年(1851年)に、自警のために梧陵が結成した「広村崇義団」。その結団式を行ったのがこの神社であることから、神社内には結団の主意書も奉納されています。
役場を出発して海沿いを歩き、まちなかからこの廣八幡宮へと渡る「稲むらの火祭り」は、400人ほどが列を成して松明を手に練り歩く幻想的なお祭りです。途中稲むらに点火し、最後は廣八幡宮で松明奉納や神事、平安の舞奉納などが行われます。
この日は町中が総出。小学5年生が「稲むらの火」の物語を暗唱し、6年生が10番以上ある「稲むらの火の歌」を合唱。小学校に入ると耳にするこの物語と歌は、子どもたちが自然と口ずさめるほどに身近なものとなっています。
当時、日本一の醤油会社と言われたヤマサ醤油。その社長であり、広村では大地主。それでも奢ることなく若者にはご馳走をふるまい、村の巡回中に畦道 ですれ違う人には道を譲り、ご苦労様と声をかける、温厚な人物だった梧陵。彼の望んだ「百世の安堵」は「子孫が長く安心して住めるまちに」という意味。その言葉通り、その後の地震の際にも、梧陵の築いた堤防が広川のまちを津波から守っています。
ちなみに小泉八雲の物語の地震は、実際には三陸地震の津波の直後に書かれたと言われています。広村の逸話は一体誰から伝え聞くこととなったのか、それは今も謎のベールに包まれているそう。いろいろな想像を巡らせながら、その足跡を辿るのもまた一興。心やさしく、人望があり、土壇場の実行力はピカイチ。そんな有田生まれの英雄の功績をぜひたどってみませんか?
記事作成:令和4年2月